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12月

日本の年末の風物詩“ベートーヴェン第九”(1770〜1827)

師走ですね。行く年来る年を大切にする日本人にとっては、大晦日にむけて慌しいながらも、一年を締めくくる特別な気分で過ごすひと月です。
年末の音楽の風物詩といえば、“ベートーヴェンの第九”。毎年、職業オーケストラは必ずといっていいほど12月のプログラムに、この合唱付きの交響曲を取り上げます。そして、たくさんの聴衆が足を運びます。西欧ではこんな風習(?)はありません。おかげで日本の指揮者は“第九”を振る回数が、欧米の指揮者にくらべて、けた違いに多くなるそうです。つまり、日本の年末の“第九”は世界的には特異なことなのですが、私たちにとってはそれほど不自然に感じられるわけではない。よほど、このベートーヴェン最後の交響曲は、日本人の“年の瀬意識”に合致するのでしょう。
そこで、ちょっと思い出してほしいのです。さきの東日本大震災のおりに、外国人が一方ならぬ驚きで目を瞠って称揚したことなのですが、震災直後の被災地で未曾有の災害によってもたらされたさまざまな困難や不如意に、私たち日本人が、秩序正しく協力しあって行動する様子が報じられました。そのような私たちが普段は意識しない心性や規範意識は、年末に特別な気持ちで第九を鑑賞するのと淵源が重なるのじゃないかと思うのです。日本人は昔から歳時や節目を大切なものと感じ、共同体のうちではいつも折り目正しく節度をもって行動する民俗を、気の遠くなるほどながい時間をかけて培ってきたのです。年の瀬の第九は、そんな私たちが、なかば無意識に自分たちのものとして受容したベートーヴェンの精神だともいえないでしょうか? 考えてみれば、なんとも奇跡的な東西の出会いのように思われてなりません。最後に、第4楽章で歌われるシラーの頌歌『歓喜に寄す』の1節を引用します。
《よろこびにあふれて、ちょうど満天の星々が/壮大な天の夜空を悠然とめぐるように/同胞よ、おまえたちも与えられた道を歩むのだ(訳:喜多尾道冬)》(え)

11月

11月10日はフランソワ・クープラン(1668〜1733)の誕生日

バロック音楽とは17世紀から18世紀の中頃までのおよそ150年の西欧の音楽をいいます。音楽史上、J.S.バッハの存在があまりにも巨大なため、国で考えるとドイツ音楽がどうしても前面に出てきますが、当時の音楽の先進国はイタリアです。モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、ペルゴレージといった名前が思い浮かんできます。そのイタリア音楽に強い対抗意識を持つかのようであったのが、フランスです。言うまでもなくブルボン王朝による絶対王政の時代、ヴェルサイユ宮殿と太陽王ルイ14世に象徴される眩いばかりの絶頂の時代です。音楽でも、器楽曲からオペラまで光輝あふれるフランス音楽の精華が燦然としている時代です。なのに、21世紀の現代ではいまひとつ、関心の濃度が薄いようです。それは、時代の嗜好によるのかもしれません。おそらく、現代のスピーディーで慌ただしい勤勉性とは、親和性があまり高くない音楽のような気がします。

さて、フランソワ・クープラン(1668〜1733)です。フレンチ・バロックのクラブサン(チェンバロ)音楽の頂点に位置づけられる作曲家です。生涯4巻のクラブサン曲集をのこしました。27の組曲(オルドル)に230曲余りの小曲が含まれています。
当時の組曲は一般的にはプレリュード(前奏曲)に様々な舞曲を組み合わせたものですが、クープランはこだわらずに自由な標題をつけ小曲集が多いです。その標題がなかなか興味深く面白い。いくつか例を引いてみますと、— 羊飼いの女、古き偉大な吟遊詩人たちの年代記、恋の夜うぐいす、修道女モニク、さまよえる亡霊たち・・・。タイトルを見ただけで、ちょっと聴いてみたくなってきますよね。じっさい、洒脱にして優美、そして雅趣に富む。ときにシニカルであり、あるいは羽毛のように軽い悲しみの旋律がそよぎ、この世の実相を思わぬ和声がうがつようです。音楽の核がポエジー(詩心)でできているのです。

「神秘的なバリケード(障壁)」という不思議なタイトルの曲があります。わりとよく演奏される曲ですが、いったいどういう意味なのでしょうか?わたしは、落ちそうで落ちない女心の不可思議、という解釈をしていますが、みなさんはどのように感じるでしょう?(え)

10月

10月27日はパガニーニ(1782〜1840)の誕生日

音楽史では、19世紀の前半はヴィルトゥオーゾの時代と呼ばれることがあります。その源泉はイタリアの海港都市ジェノバ生まれの天才ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニです。同じく超絶技巧で有名な作曲家・ピアニストであるリストは、その音楽家としての経歴を「私はピアノのパガニーニになる」という有名な言葉で踏み出したのです。つまりパガニーニは超絶技巧の元祖であり、卸元のような存在なのです。ただその人間離れしたテクニックは「悪魔と契約を交わして得られたものだ」という噂が生涯つきまといました。

パガニーニはその当時では曲芸とでもいうしかないさまざまなヴァイオリン奏法を開発し、イタリアの諸都市から西欧の各国を席巻していきます。その熱狂的な人気は、20世紀のビートルズ以上であったとも言われています。コンサートを開催すれば高額のチケットにもかかわらず多くの人々が殺到し、うなるほどの大金が転がりこんできたのです。
ひとつの逸話があります。赤貧にあえいでいたフランスの作曲家ベルリオーズの「幻想交響曲」をパリで聴いたパガニーニが、ベートーヴェンの後継者として2万フランという大金をぽんと贈ったというのです。今日の日本円でおよそ2千万円といったところでしょうか。

無論、酔狂ではありません。パガニーニはベートーヴェンの音楽の熱烈な信奉者であったのです。パガニーニの1年の稼ぎはベートーヴェンの生涯の収入よりひょっとすると多いかもしれません。しかし、創り出される音楽の価値のちがいをパガニーニの天才は痛いほど洞察できるのです。
パガニーニが遺した音楽には、その「悪魔との契約で手に入れた」超絶技巧の底流に、微光に包まれた幼少期への追懐、俗世間では喝采されていても神の祝福は得られないことへの心底の嘆き、そして自分がベートーヴェンの後継者とはなれない痛切な断念、そんな人間的な声が聴こえて来るように感じることがあります。
代表作「24のカプリース」は超絶技巧の見本帳のような曲集でしかないのか…、機会があればパガニーニの心底の声に耳を傾けてほしいと思います。 (え)

9月

9月25日はグレン・グールド(1932〜1982)の誕生日

J.S.バッハに通称「ゴルトベルク変奏曲」という鍵盤楽器のための独奏曲があります。おそらくこの文章を目にしているほとんどの人が知っているかと思いますが、サラバンドという舞曲のアリアとその低音部による30の変奏曲からできています。反復を指示通りに演奏すれば90分ほどもかかる大曲です。
さきの5月に98歳で他界した音楽評論家の吉田秀和に『名曲300選』というかなり古い著作があって、この曲について「私にはどうも長すぎて、おもしろいが敬遠したい曲であった」と書かれています。当時、おおかたのこの曲の受けとめ方はそんな感じであったのだろうと思います。

しかし、1955年に22歳の青年ピアニストによって録音された1枚のLPレコードによって、この大曲をめぐる世界が激変したのです。吉田秀和は続けて書いています、「しかし半年ほど前、カナダのグレン・グールドのレコードをきいて以来、この曲を改めて見直した」と。グールドの20世紀の神話ともいえるデビューです。歯切れのいい高速テンポで、反復の指示を無視した全曲の演奏時間は、なんと40分をきっていました。この若者の思いきった解釈に世界中が魅了されたのです。現代ピアノによるバッハ演奏の可能性を開拓したとも言えます。「テンポがきわめて速いなんてことは表面的なことで、ペダルが極度に少ない彼のピアノがいかに明るく近代的な響きにみちているか。それをよく味わってほしい」と書いた吉田秀和は、当時わが国ではいたって低評価だったグールドの演奏をいち早く熱烈に評価した評論家だったのです。

その後、グールドは50歳で急逝しますが、その1年ほど前に再び「ゴルトベルク変奏曲」を録音しています。その頃には、日本はグールドの熱烈な支持者にあふれていました。その再録音は現在でもこれ以上ない評価を受けていますが、すべては1955年の録音から始まったのです。そして、いまや「ゴルトベルク変奏曲」には枚挙にいとまがないほどの録音があるのです。(え)

8月

8月4日 モーツァルトとコンスタンツェの結婚

1782年8月4日、モーツァルトはウィーンのシュテファン大聖堂で結婚式を挙げました。ザルツブルクの大司教コロレードと決裂し、ウィーンでひとり暮らしをはじめて1年あまりのことです。相手は、旧知のウェーバー家の三女、コンスタンツェです。モーツァルトは26歳、コンスタンツェは20歳でした。もともとのモーツァルトの執心は姉のアロイージアだったのですが、アロイージアはすでに資産家で俳優のヨーゼフ・ランゲと結婚していました。

ふたりの結婚生活は10年と続きませんでした。いうまでもなくモーツァルトの早世によります。コンスタンツェを3大悪妻のひとりとする巷間の俗説があるようですが、あまり真面目に取り合う気になれません。かりにコンスタンツェが責めを負うとすれば、自分に都合の悪い手紙等の資料を処分したことくらいでしょうか。彼女はこの短い結婚生活で6人もの子供を出産しているのですよ(成人したのは2人だけですが)。多少の波風があったとしても、ごく普通のよくある夫婦と考えていいように思います。モーツァルトが旅先からコンスタンツェに宛てた手紙はいくつか残されていますが、どれもなかなか微笑ましい愛情に満ちたものです。どだい夫婦間の機微というものは他人にはやすやすと窺いえぬことではないでしょうか。

そんなことよりも、この結婚を直接の契機としている名曲があります。ハ短調のミサ曲(K.427)です。この結婚の成就と引きかえに作曲され、翌1783年ザルツブルクで奉納(初演)されました。ソプラノの独唱をコンスタンツェが歌ったと言われています。こちらは、バッハのロ短調ミサ曲、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)とあわせて3大ミサ曲などと呼ばれたりもします。ただし残念なことに、現存する楽譜では未完成なのです。それでも3大ミサ曲の名称に何の違和感もない永遠の名曲です。 (え)

7月

7月17日は「水上の音楽」(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル)が初めて演奏された日

オリンピックの開幕が近づいてきましたね。今年の開催地はロンドン。ロンドンといえばテムズ川。そして夏は水辺が恋しくなる季節です。洋の東西を問わず、時代の新旧を問いません。18世紀初頭のロンドン、涼をもとめてテムズ川で挙行された英国王の船遊びのために作られた曲があります。そう、ヘンデルの『水上の音楽』とよばれる組曲です。その第2組曲の第2曲「ホーンパイプ」は特に有名で、おそらく誰もが聴きおぼえがあるはずです。

このテムズ川の船遊びを催したのは英国王ジョージ1世ですが、ヘンデルとの間には因縁があります。ドイツのハレという都市に生まれたヘンデルは、20歳過ぎに当時は音楽の先進地であるイタリアで修行。箔をつけて3年半ほどでドイツに戻ると、ハノーファーの宮廷楽長に就任しますが、すぐにロンドンに行って帰ってこない。どうもロンドンでオペラを手がけたかったらしい。そのままロンドンに居ついてしまったのです。すると当時の英国女王アンが跡継ぎのないまま崩御。次の英国王として、白羽の矢がなんとドイツのハノーファー選帝侯に立った。ヘンデルが後足で砂をかけるようにした元の雇い主、すなわちジョージ1世です。ヘンデルは泡でも食ったようにうろたえたでしょうね。

『水上の音楽』がジョージ1世の不興を解くために作曲されたという逸話は、現在はよくできた作り話とされています。『水上の音楽』がテムズ川上で演奏された船遊びは、記録では1717年の7月17日のこと。この音楽は、野外で川面をわたる涼風に吹かれながら耳を傾けるにふさわしい開放感に満ち、国王の盛大できらびやかな船遊びにふさわしい愉悦感にあふれています。船上の英国王はもとより、川岸に集まったロンドン市民の耳をも愉しませたことでしょう。
その後、1723年にジョージ1世はヘンデルを「王室礼拝堂作曲家」に任命しました。そして1727年、ヘンデルは正式にイギリスに帰化したのです。(え)

6月

6月8日はロベルト・シューマン(1810〜1856)の誕生日!

ロベルト・シューマンは1810年に生まれ、1856年に46年の短い生涯を閉じました。生年はショパンと同じなので、一昨年の生誕200年になる記念の年も、ショパン人気の影で、あまり陽のあたることがなかったように思います。

シューマンの一生は不遇だったとまではいえないのでしょうが、いつもなにかと気苦労のたえない、割を食っている人生のような印象があります。その作品もどうもストレートに評価されない気味があるようで、もっとも代表的なピアノ独奏曲においてさえ、展開に乏しく構成力が弱いとか繰返しが多すぎるとか否定的な評価を目にすることがあります。管弦楽曲、特に4曲ある交響曲については、オーケストレーション(管弦楽法)の下手な作曲家と烙印を押されてきました。ほとんど演奏されることのなかった劇音楽や宗教音楽の作品とともに、シューマンの管弦楽法が評価しなおされるようになってきたのは、ごく最近になってからです。また、シューマンが精神病を患っていたことはよく知られていますが、その影響を作品に結びつけた記述もよくみられます。

それらの否定的ともいえる評価は、どれも大なり小なり理由があることなのでしょうが、一方ではシューマンの作品の魅力の一端にもつながっていて、熱烈なシューマンの愛好家(シューマニアーナ)を生み出してきた源泉ともなっているようです。

そもそも、ある曲を特別に好きになったり、ある作曲家を偏愛したりするのはどういうことなのでしょうか。私たちは、容姿も性格も育ちも、どこにも欠点がなく完璧であるという理由で、恋愛をするわけではありません。好きで好きでたまらないという感情を理路整然と説明することはできないのです。

その説明ができない何かこそ、シューマンの音楽を織り成すものであり、そういう音楽だからこそ、隠れキリシタンのようにシューマニアーナがこの世にひそかに、しかし確実に存在し続けるように思うのです。(え)

5月

5月18日はサンソン・フランソワ(1924〜1970)の誕生日!

サンソン・フランソワというピアニストをご存知でしょうか?亡くなったのは1970年のパリ。あと一息でドビュッシー全集の録音を完成できるところでした。わずか46歳です。死因はおそらく心筋梗塞。それまでもたびたび狭心症の発作があったようなので持病といってもいいのでしょうが、それでも終生片時も酒とタバコを手離さず、昼夜逆転したような生活を続けていたというのです。無頼派とか破滅型という言葉がおのずと思い起こされます。

ピアニストで文筆家でもある青柳いづみこさんが『ピアニストが見たピアニスト』という著書で愛惜の思いがこぼれてくるような一章を書いています。思いすごしかもしれませんが、いくらか取り乱したような風情さえ見うけられます。サンソン・フランソワのピアノには、危ういながらも強く人を魅してやまない人間的な何かが秘められていると感じられてなりません。のこされた録音をCDで聴くと、まずピアノの音そのものに血が通っているように思えるのです。フランソワは正確に譜面どおり弾くことにそれほど頓着しなかったようで、編集が可能なスタジオ録音でも弾き間違いなどそのままにしています。しかし、その演奏は天衣無縫な霊感に富み、生彩を放っています。5曲しか録音されずにのこされたドビュッシーの「12の練習曲」について、青柳さんは書いています。「ポリーニ、ベロフ、内田光子、岡田博美。腕自慢の名手たち」の録音と比較して「フランソワは、彼らの指からすべり落ちてしまった多くの貴重なものをすくい上げている」と。今年はドビュッシー生誕150年の年です。ドビュッシーの時代を髣髴とさせるのは、誰よりフランソワのピアノだろうと思うのはわたしだけでしょうか。

パリの5月はマロニエの白い花が、まるでフランソワの誕生月を祝福するかのように咲き乱れていることでしょう。(え)

4月

4月23日はプロコフィエフの誕生日!

♪バレエ音楽《ロミオとジュリエット》のお話♪

今年はどういう訳か『ロミオとジュリエット』の大型の公演が2つもあります。さながら《ロミ&ジュリ・イヤー》の観があります。原作者の名前はウィリアム・シェイクスピア、いうまでもありませんね。あまりに偉大な劇作家です。

シェイクスピアが活躍した16世紀から17世紀にかけてはエリザベス朝演劇の時代と呼ばれ、西欧の演劇史上にひと時代を画しています。ただ、その時代、主に風紀上の理由からでしょうが、女性が舞台に上がることは許されず、声変わり前の少年が女役を演じていました。そういうこともあってか、シェイクスピアの描く女性キャラクターは類型的だといわれることがあります。

しかし、そのなかで、ジュリエットだけはひときわ魅力あふれる役柄として造形されています。それはそれはすばらしい。生きることがそのまま恋することであり、少女らしい精一杯の知恵と健気な勇気で筋書きの中の時間をわき目もふらずに駆け抜けていくのです。ジュリエットの台詞のひとつひとつが彼女のみずみずしい生の輝きとなってふりまかれているかのようです。

そんな魅力に触発された音楽やオペラはいくつかありますが、その代表的な作品となると、まずはセルゲイ・プロコフィエフのバレエ音楽でしょう。たんに踊るための音楽としてだけでなく、原作の精髄を表現し尽している名曲です。作曲家にもおそらく愛着のある自信作だったのでしょう。自身の手で演奏会用の管弦楽曲に編曲し、さらにピアノ独奏用の組曲も編んでいます。ぜひ、いろいろなヴァージョンを聴いてほしいと思います。そして『ロミオとジュリエット』という世界遺産のような原作の世界にもいちど参じてほしく思います。

実は、プロコフィエフの誕生日は1891年の4月23日なのですが、奇しくもそれは1564年生まれのシェイクスピアの誕生日でもある可能性が強いのです。(え)

3月

3月はJ.S.バッハの誕生日!

未曾有の大災害をもたらした東日本大震災から1年になろうとしています。

震災後すぐに世界を代表するいくつものオーケストラが、震災犠牲者追悼のために定期演奏会のプログラムを一部変更したり、超一流といわれる音楽家がわざわざ来日してチャリティ演奏会を開催したり、世界の各地から音楽を通じて心温まるメッセージが届けられたりしたことは、記憶にあたらしいことです。

犠牲者追悼のため、あるいは復興を祈念して演奏された曲はさまざまでしたが、そのなかでもっとも多かったのは、おそらくJ.S.バッハの管弦楽組曲第3番の第2曲「エール」ではないでしょうか。いわゆる「G線上のアリア」として有名な曲です。

バッハの音楽の多くは教会のための音楽、つまりは宗教音楽です。しかし、特に宗教上の目的をもたない世俗的な音楽や器楽曲も数多くあります。全部で4曲ある管弦楽組曲も、もちろんそうした世俗的な音楽の代表的な作品のひとつです。そのような作品にも、この曲のように、あたかも宗教音楽のように聴き手を敬虔な祈りの気持ちに導く曲があるのです。

それはもちろんバッハが数多くの作品をのこしたクラヴィーア(鍵盤楽器)のための音楽についてもあてはまります。「平均律クラヴィーア曲集」第1巻第1曲の「前奏曲」をベースにした、フランスの作曲家グノーによる「アヴェ・マリア」はあまりにも有名です。バッハは対位法の大家として厳めしい印象が強いのですが、その音楽は人の心の奥深くにまで及んでいくしなやかな力を蔵しています。3月は、音楽にたずさわる者が絶対に忘れてはならない作曲家J.S.バッハの誕生月でもあるのです。(え)

2月

2月12日は「ラプソディ・イン・ブルー」(ジョージ・ガーシュウィン)が初めて演奏された日

『アメリカ交響楽』という映画をご覧になったことがありますか?原題は『Rhapsody In Blue』。アメリカ音楽を作り上げた偉大な作曲家、ジョージ・ガーシュウィンの生涯を描いた傑作です。圧巻は「ラプソディ・イン・ブルー」初演のシーン。

1924年2月12日。ニューヨークのエオリアン・ホールの入り口に到着する客が次々に映し出されます。ハイフェッツ、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーら、クラシック界のお歴々たちです。ジャズ王で、自ら楽団を率いるポール・ホワイトマン主催の「現代音楽の試み」と題されたこの日のコンサートが、いかに注目を集めたものかが伺い知れます。

さて場面はステージに。楽団のトレードマークでしょうか、指揮者ホワイトマンの似顔絵がドラムに描かれているのが微笑ましい(その前にはバンジョーが配置されています)。さあ、演奏が始まります(指揮者役は何と、ホワイトマン本人)。クラリネットのグリッサンドに始まる有名な旋律、ついで管楽器、ピアノへと主題が弾き継がれていきます。その後ジャズ風なリズムに乗って曲は進み、中間部のアンダンテ・モデラートへ。ホワイトマン楽団のテーマ音楽として一世を風靡した甘く切ないメロディが奏でられ、最後は速度を上げて華麗に終了。会場は万雷の拍手に包まれます。「ラプソディ・イン・ブルー」が歴史に名を留めた瞬間。とても感動的です。

1920年代はアメリカの「狂騒の時代」と言われています。ジャズやミュージカル、ダンスなどアメリカ的な文化が花開いた時代。この映画にはそんなアメリカの姿もきっちりと描かれています。DVDで入手できますのでぜひ一度ご覧ください。お勧めです。(く)

1月

1月27日はモーツァルトの誕生日!

モーツァルトはその短い生涯に27曲のピアノ協奏曲を残しました。最初の4曲は他人のピアノ・ソナタの編曲であり文字どおり習作といっていいのですが、第5番以降の23曲はそれぞれが珠玉の名曲です。

最後の第27番変ロ長調(K.595)は1791年の1月に完成されました。
モーツァルトの誕生日は1月27日ですが、その年に35歳の誕生日をむかえ、12月には未完のレクイエムをのこしてこの世を去ります。だからでしょうか、この最後のピアノ協奏曲は長調でありながら、悲しみを突き抜けたような不思議に澄んだ光に満ちています。音楽学者のアインシュタインは「この曲は実際に《天国の門》、つまり永遠への戸口に立っている」(浅井真男訳)と書いています。
このピアノ協奏曲に続けてモーツァルトは3曲の子供向けの歌曲を作曲しています。その1曲「春への憧れ」(K.596)は、この協奏曲の第3楽章の主題と同じものです。
歌詞は、「早く5月が来ないかな、冬は冬で楽しいこともいろいろあるけれど、やっぱり暖かくてスミレの咲き乱れる緑豊かな5月がいいな」という大意です。厳しい冬のさなかに春の到来を待ち望む気持ちが、心がおのずから弾み立つような旋律にのせて歌われます。日本では5月というと初夏の印象が強いのですが、モーツァルトのいたウィーンでは春の訪れは5月を待たなくてはならないといいます。

この歌曲、実は日本でも古くから小学校の唱歌に導入されたり、高等学校の音楽の教科書に採用されたりしていますので、けっこうご存知の方も多いのではないかと思います。そういえば、ピアノ曲にもなっていますね。

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