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12月

12月はJ. S.バッハ(1685-1750)の「クリスマス・オラトリオ」!!

12月ですね。12月といえばクリスマスです。日暮れた街中ではあちこちでクリスマス用のイルミネーションが目につくようになります。歳末のせわしない気分を美しい色とりどりの電飾の灯りが夢みがちに誘ってくれる季節です。 現代ではクリスマスはキリスト教という宗教の枠をこえて多くの国で年中行事となっていますが、本来はキリスト教における大切な宗教上の行事です。その本来の宗教上の役割をになったクリスマス用の西洋音楽は枚挙にいとまないほどにありますが、その代表的なものといえば、やはりJ. S.バッハの「クリスマス・オラトリオ」をあげなくてはならないでしょう。バッハの4大宗教音楽のひとつに数えられている大曲です。

曲は全体で6部からできています。その各部とも独唱・合唱・管弦楽による10曲ほどで構成され、6部全体でキリストの生誕をめぐる一貫した流れをつくっています。演奏時間の合計は2時間半をこえるでしょうか。ただし、1部から6部までを1日で上演するために作曲されたわけではありません。クリスマスという行事は12月25日から翌年の1月6日までの期間のことであり、「クリスマス・オラトリオ」では12月25日に演奏される第1部から1月6日に演奏されるための第6部まで、演奏される日が決まっているのです。クリスマス第1日(25日)に第1部、以下26日=第2部、27日=第3部、1月1日(イエス命名の祝日)=第4部、2日〜5日の日曜日=第5部、6日=第6部です。

では、クリスマスは12月25日に突如として始まるのかというと、当然そんなことはないのです。日本でも最近はずいぶんと早くクリスマス気分が商店街などにあふれるようになりましたが、12月25日にさきだつ4週間を待降節(ドイツ語でアドヴェント)といい、クリスマスを迎えるさまざまな準備にいそしむ期間なのです。モミの木の輪をアドヴェント・クランツ(待降節の冠)といいますが、最近は日本の家庭でも飾られているのをたまに見かけます。この待降節は心身をきよらかにし、心しずかに過ごす期間といいます。そして聖夜(クリスマス・イブ)を迎え、待望のクリスマス(降誕節)となります。アドヴェント(待降節)の清浄で落ちついた4週間の日々があってこそ、「クリスマス・オラトリオ」第1部第1曲冒頭のトランペットとティンパニの華やかな響きとつづく喜びに満ち溢れた合唱が、心の隅々にまでしみいるようにかんじられるのだと思います。(え)

11月

11月22日はブリテン(1913-1976)のお誕生日!!

●2013年は、二人の巨匠、リヒャルト・ワーグナーとジュゼッペ・ヴェルディの生誕200周年ということで、あちらこちらさまざまな形で盛りあがりをみせています。この「おんがく通信」でも二人の記事を取り上げましたし、ワーグナー好きの私も、書店でワーグナーに関する新刊を購入したり、音楽会に出かけたり、その恩恵にあずかっています。

●そのような中、今年記念イヤーを迎えたもう一人の作曲家について今回は取りあげたいと思います。11月22日に生誕100周年を迎えるベンジャミン・ブリテンです。そう、あの「青少年のための管弦楽入門」でよく知られるイギリスの作曲家です。この曲の他にもオペラ「ピーター・グライムズ」や「戦争レクイエム」など、名曲の数々を残したブリテンですが、意外にも日本との関係が深いことをご存知でしたか?

●話は1940年に遡ります。この年日本は、皇紀2600年(神武天皇の即位から2600年)ということでさまざまな記念行事が予定されていました。政府は「皇紀2600年奉祝曲」、つまり祝典のための楽曲を、外国の作曲家5人に委嘱します。ドイツのリヒャルト・シュトラウス(日本建国2600年祝典曲作品84)、フランスのイベール(祝典序曲)とともに、イギリスのブリテンもこの話を引き受け、「シンフォニア・ダ・レクイエム」を作曲しました。ところが、作品が届くのが遅かったのに加え、その内容がキリスト教的で、祝典にふさわしくないという議論がわき起こり、11月10日に行われた式典での演奏はかないませんでした。日本での初演は、1956年2月、ブリテン自らが来日し、NHK交響楽団を指揮して果たされます。

●さて、ブリテンと日本との関係はこれだけにとどまりません。この来日の期間、ブリテンは能楽「隅田川」を鑑賞、それも2度もです。また、2週間かけて笙を習ったといいますから、いかに能楽に惹かれたのかが伺えます。イギリスに帰ったブリテンは、「隅田川」の印象を元に、地元の教会で上演するためのオペラ「カーリュー・リバー」を作曲します(1964年)。舞台は架空の川、カーリュー川。カーリューはシギという鳥の名前で、「隅田川」の謡に登場する「都鳥」を意識したものです。我が子を探す狂女と渡し守を中心とした筋書きも能と類似。演者は能と同じく男性のみ。伴奏に指揮者はいなく、能の囃子のように音楽を誘導する楽器がその都度指定されています。オルガンとハープは、笙と琴をイメージしているのだそうです。なぜここまでブリテンは「隅田川」にこだわったのか…。ブリテン自身が「隅田川を観て、感動的なストーリー、無駄なものがそぎ落とされた様式、緊張度の高い演技、語りと謡の絶妙な組合せ、美しい舞台と衣装に感動した。ヨーロッパの国々の歌手や俳優も学ぶべきものだ」と語っています。日本の能からヨーロッパのオペラの原点に立ちかえったということでしょうか。

●上演時間は約75分。ブリテン自身が音楽監督をつとめた「カーリュー・リバー」のCDが販売されています(残念ながら映像はなし)。ご興味を持たれた方はぜひ一度お聴きになってみてください。[ユニバーサルミュージック/UCCD3650/1965年](く)

10月

10月8日は武満徹(1930-1966)のお誕生日!!

武満徹は戦後の日本が生んだもっとも重要な作曲家であり、20世紀の音楽史上でもぜったいに欠かすことのできない作曲家のひとりです。

武満が世界的な名声を確立したのは、ニューヨークフィル創立125周年記念(1967年)に作曲を委嘱された〈ノヴェンバー・ステップス〉によってです。現在でも武満の代表作といえば、この琵琶と尺八を独奏楽器とした管弦楽曲が真っ先に挙げられます。
武満の年譜を見ると、〈ノヴェンバー・ステップス〉の数年前から、主に映画音楽などの分野で琵琶や尺八などの邦楽器の使用が目につくようになります。ちょうどその時期(1964年)、東西文化センターの招聘で訪れたハワイで、ワイキキの沖合いを泳ぐ座頭鯨を見た感動を回想した文章があります。その結びは「鯨のような肉体をもちたい。そして海を泳ぐ。西も東も無い、海を泳ぐ。」となっています。もちろん「西も東も無い」という表現には、西洋と東洋(日本)が含意されているでしょう。
武満という作曲家は、西洋とはまったく異なる文化的伝統をもつ日本人が西洋音楽に携わることについて、きわめて自覚的であったように思います。さらに、そこに息苦しいほどの難問を見据えていたようにも思われます。小林秀雄の「凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るという事が屢々起るのか」(『モオツァルト』)という言葉が思い起こされます。 〈ノヴェンバー・ステップス〉はこの難問への渾身の解答と捉えることもできるのではないでしょうか。もちろん、「西と東」という問題は、楽曲に邦楽器を使うかどうかという単純なレベルの話ではありません。武満は明確に「西も東も無い」と書いているのです。

〈ノヴェンバー・ステップス〉以降も武満は数々の傑作を送り出し、その世界的評価を確固たるものとします。そのほとんどは西洋の楽器をつかった、西洋音楽の延長に位置する音楽です。しかしながら、たとえば後期のオーケストラ曲、作曲家が「日本の回遊式庭園から想を得た」と述べる作品などに耳を傾けていると、その生成しては衰亡していく旋律や濃やかで繊細きわまる独自の響きは、まさしく「西も東もない海」の表情にほかならないと感じられるのです。
最晩年(1996年)、その惜しまれた死のひと月ほど前に発表された「海へ!」と題するごく短い文章の最後にも、この不世出の作曲家の生涯を貫く主題がまた繰り返されるのです。「できれば、鯨のような優雅で頑健な肉体をもち、西も東もない海を泳ぎたい」と。
このように一貫する生涯のあり方に、わたしは胸を熱くするような感動をおぼえるのです。(え)

9月

9月25日はショスタコーヴィチ(1906-1975)のお誕生日!!

20世紀が遠ざかりつつあります。
20世紀といえば2度の世界大戦と東西対立による冷戦構造に特徴づけられる時代といってもいいでしょう。東西対立の一方の雄であった国家は、現在では解体されたソビエト連邦です。いうまでもなく第1次世界大戦のさなか1917年にロシア革命によって史上初めて誕生した社会主義国家でした。ショスタコーヴィチこそ、そのソ連を代表する作曲家として一番に挙げられるべき存在です。不幸なことにといっていいのか分かりませんが、ショスタコーヴィチはソ連の国家体制なかんずく独裁者スターリンとの確執ともいえる関係を抜きにして語られることがほとんどありません。

ショスタコーヴィチの死後、アメリカに亡命したソロモン・ヴォルコフという音楽学者が『ショスタコーヴィチの証言』という本を公刊します。それまで一般的には、どちらかというとソ連体制内の代表的作曲家であると見られていたショスタコーヴィチの、隠された反スターリン的な意図が明らかにされた内容であり、世界に大きな衝撃を与えたといえます。当然ソ連側からの反論もあり、内容の信憑性についての論争が持ちあがりました。この論争についてはいまだ最終的な決着をみていないそうですが、この書物の出現はショスタコーヴィチの音楽の解釈を一変させたといっても過言ではありません。いまではヴォルコフの著書をどう見るかはともかく、ショスタコーヴィチの音楽が単にソ連の政治体制にそった、いわゆる社会主義リアリズムを具現化したものと、単純に考える人はほとんどいないでしょう。20世紀が遠景となりつつあるいまこそ、音楽外の周辺情報などの先入主を排して、まずはショスタコーヴィチの音楽そのものと直に向きあう時期にきているように思います。

蛇足になりますが、そもそもの最初から驚くほどに音楽だけを聴くことができた人もいるのです。ヴォルコフの『証言』が刊行される数年前、1973年に来日したムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルの演奏会評で、有名な交響曲第5番を聴いた吉田秀和はなんと次のように書いているのです。
≪私は、正直いって、この曲は好きになれない。真実のものと自分に無理を加えて手に入れたものとが雑居しているみたいで。ムラヴィンスキーの妥協のない誇張のない卓抜な指揮をもってしても、これは蔽えない。いや、ますますはっきりする。勝利の炎はたけだけしく燃え上がるが、それは氷でできた炎だ。きく人の心を刺すように興奮さすが、熱くはしない。—1973.5.30朝日新聞より—≫ (え)

8月

8月22日はドビュッシー(1862-1918)のお誕生日!!

クロード・ドビュッシーの晩年は第一次世界大戦とほぼ重なっています。
1914年、オーストリアの皇太子が暗殺されたのをきっかけに、7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告。ドイツ、フランス、ロシアとまたたく間に戦局は多方面に拡大。オーストリアとドイツを中心とする同盟国側とロシア、フランス、イギリスの連合国側とのかつてない大戦争へと発展します。ナショナリズムが煮詰まって発火する戦火の時代の幕開けです。そのナショナリズムの母体となるものは、他方でその風土に根ざした様々な文化を生みだしてもきたのです。オーストリアやドイツにそれぞれ固有の音楽があり、フランスにはフランス独自の音楽があるようにです。

ドビュッシーは、戦争のもたらす暗い影と祖国の惨禍に、自身の病気や家族の不幸も加わり、やりきれない暗澹たる精神に閉ざされたようになったといいます。そんな中、最晩年の傑作群が誕生します。2台ピアノのための「白と黒で」、ショパンに捧げられた「12の練習曲」、そして楽器の組合せの異なる3曲のソナタ。このソナタは、当初の計画では6曲のセットであったのですが、ながくドビュッシーを苦しめた病(直腸がん)がそれを3曲で途絶させることになりました。
1曲目はチェロとピアノ、2曲目はフルート、ヴィオラ、ハープの3重奏、3曲目は絶筆となったヴァイオリンとピアノのためのソナタです。楽譜には「フランスの音楽家クロード・ドビュッシー作曲の〜」と記されている3曲のソナタは、無論ウィーン古典派以来のドイツ音楽伝統のソナタ形式とは無縁ですが、さりとてこれがフランスの美の典型とも思えない、謎のような気品と美しさを湛えています。かつてのドビュッシーの音楽にあった豊饒な響きや色彩感は遠のき、余分なものを削ぎ落としながら、音楽的実質は痩せ細ってはいません。音楽は休みない風のように緩急自在にふき流れてとどまることをしません。そして、それはフランスという固有の風土が育んだ美のかたちにちがいないのです。

「私にできることは、作曲しかないのだ。…だから私は、ただひたすら、曲を書き続ける。明日の朝にも死ぬかもしれないと思いながら()」とドビュッシーは述べたといいます。1918年3月、まだドイツ軍の砲撃のやまないパリでドビュッシーは55年余りの生涯を閉じます。第一次世界大戦が終結したのはその年の11月のことでした。(え)

*ポール・クロスリーのCDドビュッシー「ピアノ独奏曲全集」第3巻の付属冊子所載の「演奏者によるノート」(原明美訳)からの引用。

7月

7月11日はジョルジュ・サンド(1804-1876)のお誕生日!!

1837年10月のフレデリック・ショパンの日記にある記述です。ここでオーローラと呼ばれているのは、本名オーローラ・デュパン、筆名ジョルジュ・サンド。19世紀のフランス文学を代表する女流小説家です。彼女は時代の最先端を行くような恋多き奔放な女性でした。そして、パリで音楽家としての生活を軌道に乗せたばかりのショパンと恋に落ちるのです。1838年の夏ごろには、二人の関係はパリ市中では周知となり、恰好の噂の的となります。二人は、人々の好奇な視線を逃れて、スペインのマヨルカ島へ向かいます。マヨルカ島はスペイン・ヴァレンシアの東、地中海に浮かぶ小島です。恋人同士の愛の熟成にはうってつけの環境のように思えますが、あいにく雨季の滞在となったこともあり、激しい結核の発作がショパンを襲ったのです。わずか3か月ほどで二人はマヨルカを後にします。
のちにサンドは、マヨルカの生活は「完全な失敗」だったと回想しているのですが、マヨルカ島でショパンはピアノ音楽史に燦然たる大傑作を完成させます。〈24の前奏曲op.28〉です。長調とその平行短調を交互に5度循環で配置したこの曲集は、全24曲がじつに精緻かつ綿密、周到に構成されており、有機的に統一された小曲集として完璧です。あくまで個人的な印象ですが、この曲にはショパンのサンドへの情熱が刻印されているように思えてならないのです。燃え上がる恋の束の間の昂揚と甘い歓喜、そして絶えざる不安と絶望、その激しい振幅が長短調を交互にする曲の並びと歩みをひとつにして、ショパンの心の諸相を問わず語りに物語っている…。

ロマン主義的発想から遠いはずのショパンが、一見ロマン派以上にロマン派的な作品を期せずして残しているのは、芸術作品の創造における逆説の典型とでも言えましょうか。(え)

冒頭のショパンの日記は新潮文庫のカラー版作曲家の生涯「ショパン」(遠山一行)による。ほかも同書を参考にしました。

6月

6月10日はトリスタンとイゾルデが初めて演奏された日!!

1865年6月10日ミュンヘンのバイエルン宮廷歌劇場で、今年生誕200年となるリヒャルト・ワーグナーの代表的楽劇《トリスタンとイゾルデ》が初演されました。1859年に総譜が完成してのち、1862年にはウィーンで70回を超える稽古を経ながらも上演至難という烙印をおされるなどの紆余曲折があったすえ、ワーグナー崇拝者であったバイエルン国王ルートヴィッヒ2世の庇護のもとの初演でした。
この初演は19世紀音楽史上の最大の事件といってもいいでしょう。空からふりそそぐ陽光と大地の滋養をたっぷりと糧にしたロマン主義の果実がこれ以上ないほどに熟しきったような芸術作品とでもいえましょうか。熱病的・偏執的といっても差し支えない、腐敗寸前の世紀末を予見した世界です。
音楽史上では、《トリスタンとイゾルデ》の以前と以後で分けることさえできる分水嶺のような作品でもあります。前奏曲冒頭に現れるいわゆる「トリスタン和音」が、それまでの西洋音楽が土台としてきた機能的和声の崩壊の引き金となったことは、どの音楽史にも記述されています。
そういう音楽史的に重要で画期的な意味合いをもったオペラ(楽劇)が、男女の不義の交わりをテーマとしていることが、いかにもワーグナーらしく思えます。許されざる男女の愛が究極には永遠の死へと向かうさまを音楽的に表現するのに、機能的和声の枠組みはあたかも踏み越えなくてはならない禁忌であったのかと考えたくもなります。それほどにこの作品においては、表現上における何を(What)と如何に(How)が区別しがたく緊密に一体化しているのです。
たしかに不健全で頽廃的ともいえる官能の世界なのですが、ワーグナーの素晴らしいところはすべてを浄化する音楽で締めくくっていることでしょうか。忍従に忍従を重ね、焦らされるだけ焦らされて、最後に最高のカタルシスとして歌われるイゾルデの絶唱「愛の死」です。(え)

5月

5月12日はフォーレ(1845-1924)のお誕生日!

風薫る5月です。暦の上ではすでに初夏、1年中で最も美しく、そして過ごしやすい季節ですね。暮春の物憂さもさわやかな風が吹きさらってしまうかのようです。日毎に夕暮れの訪れも晩くなり、夜風がなんとも心地よく感じられる頃おいです。
こんな季節の夕べのための音楽と思われてならないのが夜想曲。英語でノクターン、フランス語でノクチュルヌですね。アイルランドの作曲家ジョン・フィールド(1782〜1837)が創始したと言われ、その影響のもとフレデリック・ショパン(1810〜1849)が数多くの曲を残しました。あたかも夜想曲はショパンのために創られたピアノ曲の形式のような印象があるほど、この曲種はショパンとの結びつきが強固です。
みなさんがよくご存じのように夜想曲には特に形式的な約束事はありません。おおむね3部形式で、分散和音の伴奏に夢見るような優美な旋律で構成されています。19世紀にヨーロッパの主役となった市民階級の詩的感興が発想の源泉なのでしょうか。しかし、この夜想曲、ショパンだけに代表させていいものではありません。のちにショパンの影響から出発しながらも、独自の夜想曲の世界を創りあげたフランスを代表する作曲家がいます。ガブリエル・フォーレです。
1845年の5月に南仏の小さな町に生まれたフォーレは、1924年にパリで80歳の生涯を閉じるまでに13曲の夜想曲を作曲しました。それは生涯にわたっており、第5番までが初期、第6番から第8番が中期、第9番以降が後期と区分されます。曲想は年齢とともに変化しています。最後の第13番が創られたのは1921年、フォーレの最後のピアノ曲となりました。時に77歳という高齢です。
もともとフォーレの音楽は、感傷に流されたり放恣な感覚にふけったりすることから遠く、繊細で知的に抑制された禁欲的な旋律と響きとが特色です。独特な和声の絶妙な味わいが尽きせぬ魅力となっています。それが、さらに厳しく幽玄とでも表現したいような夢想の世界をくりひろげます。
老齢のフォーレが書いた夜想曲、その味わいはそれなりに年齢を重ねてはじめてわかる音楽かもしれないとも思うのです。(え)

4月

4月26日はシェイクスピア(1564-1616)が洗礼を受けた日!!

シェイクスピアを愛したヴェルディ、「オテロ」のお話

英国の偉大な劇作家ウィリアム・シェイクスピアの正確な誕生日はわかっていませんが、洗礼を受けたのが4月26日という記録が残っているそうです。そのシェイクスピアがことのほか音楽を愛したことは、記録にはなくても、彼が遺した数々の傑作を繙けばよくわかることです。たとえば、誰もが知っている『ヴェニスの商人』、第5幕の冒頭は比類なく美しい場面ですが、そこにある台詞。得も言われぬ月夜の晩、ユダヤ人金貸しシャイロックのひとり娘ジェシカに恋人のロレンゾが語ります。

<心に音楽を持たない人間、/美しい調べにも心を動かされない人間は/謀反・陰謀・略奪にしか向いていない。/そういう人間の心の動きは闇夜のように鈍く、/感情はこの世と地獄の境のように暗い。>(松岡和子訳)

ここで“心に音楽を持たない人間”とされる典型を、シェイクスピアは同じヴェニスを舞台にした別の傑作悲劇で登場させています。そう、『オセロ』のイアーゴ、高潔な将軍オセロを、その貞淑な妻デズデモーナのありもしない不倫疑惑をでっち上げて夫婦ともども破滅に追いやる、あの非道のイアーゴです。『ヴェニスの商人』のシャイロックとは異なり、まったく感情移入のしようのない極めつけの悪人です。
今年が生誕200年となるイタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディがシェイクスピアに心酔していたことは有名です。オペラ化したかった作品は多かったようですが、実現できたのは3作で、そのうちのひとつが『オテロ(オセロのイタリア読み)』なのです。ヴェルディの作品中随一の傑作と言えるかもしれません。シェイクスピアのストーリーの神髄を凝縮して音楽化しています。“心に音楽を持たない”イアーゴがじわじわと将軍オテロを追いつめていくさまが、聴いていて辛くなるほどに、音楽のドラマとして表現されているのです。それは、およそ250年の年月を隔てた天才と天才とが、火花が飛び散る真剣勝負のように切りむすぶ姿をも髣髴とさせるようです。(え)

3月

3月1日はショパン(1810-1849)のお誕生日!

シューマンのショパン発見についてのお話

「諸君、帽子を取りたまえ、天才だ」
1831年にロベルト・シューマンが音楽雑誌に発表した批評にある有名な言葉です。前期ロマン派を代表する作曲家シューマンは音楽批評の分野でも大きな業績を残しました。近代音楽批評の最初期に大きな足跡を残し、その慧眼と明察は高く評価されています。
ここで「天才」と呼ばれているのは、いうまでもなくフレデリック・ショパンです。生年はシューマンと同じ1810年、たがいに20歳を過ぎてこれから人生の大海原に漕ぎだそうという年齢でのことでした。この批評が、類まれな才能と才能の歴史的邂逅を演出することになったのです。対象となった作品は「『お手をどうぞ』の主題による変奏曲」(op.2)、管弦楽の伴奏を伴うピアノ曲。ショパンがまだワルシャワにいた1827年に作曲され、1830年にウィーンで出版された曲です。シューマンの批評はその楽譜によったものです。
「お手をどうぞ」の主題というのは、もちろんモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」の第1幕の名高い二重唱、ドン・ジョバンニが結婚間近の田舎娘ツェルリーナをたらし込む魅惑の旋律です。ショパンの曲は5つの変奏とポロネーズのコーダで構成されています。批評文中、シューマンはその変奏にいちいち文学的な解釈をくわえています。音楽と文学の相互的融合は19世紀ロマン主義のひとつの大きな潮流ともいえる特徴なのです。しかし、それはショパンの是とするところではなかったのでしょう。友人宛ての書簡でシューマンの批評文を冷笑的に揶揄するような言葉が残されているのです。
前期ロマン派の時代に生まれ、ロマン派音楽の旗手たちにその天才を賛美されながらも、ショパンは夜空の彗星のように独自に孤高であり、海の底にいるような絶対的な孤独の影をかかえています。ショパンの作曲の発想の根源は、ロマン派の作曲家とはまったく別の次元にあったと考えるしかありません。そこを隔てる深淵は思いのほか暗く深いようです。(え)

2月

2月20日は黛敏郎(1929-1997)のお誕生日!

いまも放送されている長寿音楽番組の「題名のない音楽会」で30年以上にわたって司会をつとめた作曲家 黛敏郎の名前は、まだ多くの人が記憶にとどめているのではないでしょうか。しかしながら、黛敏郎がかつて時代の寵児といってもいいほどのスター作曲家であったことを知っている人は、いまや数少なくなったようです。
1929年生まれの黛は、1951年に東京音楽学校(現 • 東京藝術大学)を卒業すると同時にパリに留学しますが、たった1年で帰国してしまいます。異国で伝統的な音楽アカデミズムに埋没するのでなく、日本でテープ音楽・電子音楽などの当時の前衛音楽の旗手として創作活動を始めたのです。おりしも、テレビが普及する前の映画産業がはなばなしい隆盛期で、映画音楽の依頼が文字通り殺到し、その主題歌などポピュラーな音楽にも才能を発揮します。女優の桂木洋子と結婚し、時の人のような派手なイメージを確立。そして、日本人作曲家ならではの金字塔的作品、「涅槃交響曲」や「BUGAKU」が生みだされるのです。
現在では日本を代表する作曲家としての知名度で黛をしのぐ武満徹は、そのころ作曲家を志してはいたものの、黛とは対照的にまだ無名で、食うや食わずの生活を強いられていました。自宅にはピアノもなく作曲をするのに不自由していたところ、突然自宅に1台のピアノが届けられたといいます。送り主は黛敏郎で、武満の不如意を聞き及んで、ちょうど使わないピアノがあったので譲ったということらしく、ちょっとした美談のように伝えられています。そのスピネットピアノを、武満は名作「ノヴェンバー・ステップス」までの13年間作曲に用いて、その後も生涯手放すことはなかったのです。
1996年の2月20日の黛の誕生日に武満は亡くなります。武満の葬儀の弔辞で、黛はあるメロディーをくりかえし口ずさみました。武満が若いころ黛の映画音楽作曲の助手をしていたときに使われなかった秘蔵の旋律を、「悲しみの表現の極致」としてそこで公開したのです。そのメロディーには、谷川俊太郎の詞が付されて「MI・YO・TA」というタイトルで、多くの人に歌われています。(え)

1月

1月31日はシューベルト(1797-1828)のお誕生日!

シューベルトに「ます」という曲がありますよね。まずは歌曲のほうの「ます(D550)」、2年ほどのちに室内楽の「ます(D667)」が作曲されました。どちらも群にぬきんでた傑作です。もちろん「ます」とは鱒のことです。鱒はサケ科のサカナで、大雑把にいうと海に出ていくのが鮭で、海に下らない陸封型が鱒でしょうか。でも「樺太鱒(カラフトマス)」は海に下るサケです。ちょっとややこしいですね。わたしたちが普通マスといわれて思いえがくのは、たぶんニジマス(虹鱒)じゃないでしょうか。スーパーなどの鮮魚売り場でもたまに見かけることができますよね。虹色に光る体をもち、山あいの澄んだ清流を泳ぐ魚影はさぞかし美しいことと思います。シューベルトの「ます」はそのニジマスではありません。ブラウントラウトという種で、ヨーロッパではマスというと一般的にはこちらです。同じ種だからでしょうか、やはり黒斑と朱斑の鮮やかな美しい魚ですが、ひとまわり大きな体長はときに80㎝にもなるそうです。ずいぶん大きな川魚ですね。
最初に作曲された歌曲の歌詞では、この「ます」はうら若い少女の暗喩(メタファ)なのです。しなやかでバネのように弾む旋律はそのまま少女の躍動する肢体を連想させますが、最後は釣り人(いけ好かないナンパ男)に釣り上げられてしまう落ちになっています。
抗いがたい魅力にあふれるその主題を使った室内楽の作曲をシューベルトに依頼した人がいたのです。ピアノにヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという異例の編成のピアノ五重奏曲です。シューベルトは第4楽章に「ます」のテーマによる変奏曲をおきましたが、全5楽章を通じて「ます」のイメージが遍在し横溢しています。どの楽章も、まるで釣り人(ナンパ男)から開放されて、清冽な渓流を若い生命をきらめかせて自由に泳ぎまわるかのごとくです。しかしながら、「ます」の主題のようにのびのびとした屈託のない旋律は、シューベルトがその早すぎる死にむかうにつれ、しだいに影が薄くなるように失われていくのです。(え)

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