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【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第17回 自ら戦った勇ましい女性たち<巴御前・ジャンヌ=ダルク・新島八重>

【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第17回 自ら戦った勇ましい女性たち<巴御前・ジャンヌ=ダルク・新島八重>

教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。

6月14日は、幕末のジャンヌ=ダルクともいわれる新島八重の命日です。第17回は、自ら戦った勇ましい女性たちを紹介します。

巴御前(ともえごぜん) (1157年?~1247年?/日本)

色白で髪が長く、たいへん美しい顔でありながら、強力な弓を引く。一騎当千の兵(つわもの)――これが『平家物語』に描かれている巴御前です。
巴御前と源義仲(みなもとのよしなか)は兄弟のように育てられ、ともに武芸の腕を磨いてたくましく成長し、やがて二人は愛し合うようになりました。巴御前は、義仲が戦に出ると必ずついていき、一緒に戦いました。
義仲は次第に勢力を伸ばし、一時は京の都を支配するまでに。ところが、朝廷や民の反発にあい、やがて源頼朝(よりとも)や源義経(よしつね)に追わる身となります。

義経との戦いで大敗し、死を覚悟した義仲は、巴御前に「女のおまえは逃げのびるがよい」と繰り返し諭しました。しかし、巴御前は、義仲軍が5騎だけになっても離れようとしません。そこで、義仲がさらに強く命じると、ついに巴御前は「では、これが最後のご奉公です」と言って、怪力で評判の敵の武将の方に向かいました。そして、その武将を組み伏せ、首をねじ切ったあと、合戦の場から去ったといわれています。

ジャンヌ=ダルク (1412年~1431年/フランス)

フランス北部のドンレミ村で農家の娘だったジャンヌは、あるとき「オルレアンの包囲を解きなさい。王太子を即位させ、祖国を救うのです」という神の声を聞きます。
当時フランスは、イギリスとの百年戦争の最中。国土の半分をイギリスに侵略され、王がおらず、国家存亡の危機を迎えていました。
17歳になったジャンヌは「神の声」に従い、王子シャルルに会います。ジャンヌを信じた王太子は、ジャンヌを戦闘司令官として、イギリス軍が包囲していた土地・オルレアンに向かわせました。軍旗を高く掲げ、白銀の甲冑に身を包んだ少女の騎士の出現に、フランス軍は奮い立ちます。ジャンヌは危険な突撃を何度も敢行し、翌月イギリス軍を追い払って、オルレアンを解放します。
さらにジャンヌの奇跡は続きます。王太子を連れてイギリス軍を突破しながら、戴冠式を行う土地・ランスへ向かい、王太子をシャルル7世としてフランス国王に即位させたのです。

租国フランスのために戦い続けたジャンルですが、王と対立していた人々に捕らえられると、イギリス軍に引き渡され、宗教裁判にかけられてしまいます。そして、男装などの神の教えに背いたとする罪で、「魔女」として火あぶりの刑が決定します。炎に包まれながら、ジャンヌは「神様!神様!」と叫び続けたそうです。ジャンヌ19歳の時でした。
ジャンヌの死から約20年後、シャルル7世は百年戦争を終わらせました。その後、復権裁判が行われてジャンヌの名誉は回復。ジャンヌは、フランスを救ったヒロインとして今も広く知られています

新島八重(にいじまやえ) (1845年~1932年/日本)

八重は、現在の福島県にあった会津藩(あいずはん)の砲術師範の家に生まれました。八重は物おじしない活発な性格で、おまけに怪力。60㎏の米俵を肩まで上げ下げできるほどでした。そして、兄に砲術を教わり、銃の使い方を覚えていきます。

1868(慶応4)年、戊辰(ぼしん)戦争が勃発。京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いで、旧幕府軍として参加した八重の弟が亡くなり、戦は会津まで及びました。「わたしも戦う!弟のかたきを取る!」と、八重は髪を切って、死んだ弟が残した服を着て男装し、銃を持って戦いました。果敢に戦った旧幕府軍でしたが、翌1869年に降伏。世の中は新しい時代・明治を迎えていました。

会津での戦いから三年後、八重は京都女紅場(じょこうば〈後の府立第一高等女学校〉)で教師見習いなどをしていました。銃は捨てたものの、自分の意見をはっきり言う性格はそのままでした
そんな八重を理解し愛したのは、キリスト教を布教していた新島襄(にいじまじょう)でした。二人は結ばれ、八重が30歳の時に結婚。八重もキリスト教の洗礼を受け、京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式を挙げました。
同じころ、襄は同志社(どうししゃ)英学校を設立。その教育方針は「男女平等」でした。八重は人前で「ジョー」と夫を呼び捨てにしました。妻は常に夫を立てるべきとされた時代です。世間は八重を悪妻と非難しましたが、襄は「彼女は美人ではないが、生き方がハンサムなのだ」と語ったそうです。

【歴史解説】彼女たちが生きたのはどんな時代?

巴御前が生きた時代“鎌倉(かまくら)で武士の政権が開かれる! (1185年ごろ)”
1185年、源氏を率いて平氏を滅ぼした源頼朝は、国ごとに守護を、荘園ごとに地頭を置くことを朝廷に認めさせました。こうして頼朝は、鎌倉(神奈川県)を本拠地とする本格的な武士の政権である鎌倉幕府を開き、1192年には征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられました

ジャンヌ=ダルクが生きた時代“西ヨーロッパにルネサンスが広まる! (14世紀から16世紀)”
14世紀のイタリアで、人間の個性や自由を表現しようとするルネサンス(文芸復興)と呼ばれる新しい文化の動きが起こり、16世紀にかけて西ヨーロッパ諸国に広まりました。ルネサンスを代表する芸術家のひとりが、「モナ・リザ」を描いたレオナルド=ダ=ビンチです。

新島八重が生きた時代“江戸幕府が滅亡! (1867年)”
倒幕運動の高まりから、第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は政権を朝廷に返上しました。これに対して朝廷は「王政復古の大号令」を出し、天皇を中心とする新政府の成立を宣言しました。こうして260年余り続いた江戸幕府は滅亡しました。


出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)

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