WEB限定 書き下ろし小説

海水浴へ行こう!

海水浴に行こう!

1

「……暑い」
 額からしたたり落ちた汗が、書きかけのカルテに落ちてインクをにじませた。
 窓からの日差しは、ドラゴンの息のように診察室を蒸し風呂に変えている。
 王都はこの夏、ここ数年なかった猛暑に襲われていたのだ。
「もう! これじゃ仕事にならないよ! 医者が倒れたら、冗談にもならないし!」
 トリシアは診療所を閉めると、ふらつく足で『三本足のアライグマ』亭に向かった。

「セルマさん、何か冷たいものー」
 なんとかカウンターにたどり着いたトリシアは、手をひらひらと振ってセルマを呼んだ。
「みーんな売り切れ。さっき最後の一杯のジュースが出たとこで、もう水しかないよ」
 セルマは濡らした布を頭に乗せ、カウンターに寄りかかったままうめく。
「うー、まだ夏になったばかりなのに、この暑さってなんなのさ?」
「だからといって、私をこき使わないで欲しいんですけれど?」
 頬をふくらませているのは、雪の乙女のシュネー。彼女のまわりだけは冷気に包まれているが、それでも店全体を冷やすまではいかない。
「家賃代わりだよ。キリキリ働きな!」
 セルマはシュネーに冷やさせた水を、執事ペンギンに運ばせる。
「みんなも水に入ればいいのに」
 と、涼しそうにしているのは、水槽の中のアーリンだけだ。
「本当にそうね。水浴びしたいわ」
 そう言いながら、アムレディアが『三本足のアライグマ』亭に入ってくる。
「きょ、きょ、今日は朝から貴族会議があるはずでは?」
 姉が珍しい時間に姿を見せたので、驚いたのはキャスリーン。キャスリーンも、ダンスの稽古をサボってここにきているのだ。
「この暑いのに、会議なんてやってられないわ。……と、侯爵が」
 アムレディアはどうやら、無言の圧力を気の弱い貴族にかけて、強引に休会にさせたようである。
「まったく、ワガママな」
 やや遅れて、苦い顔で『三本足のアライグマ』亭にやってきたのはアンリ。
「大臣のゼルが僕に文句を言ってきたぞ。あの人、僕は君のお守り役じゃないって何回言っても分からないんだ」
「どうせ、あと半日話し合っても何も決まらないわ。それに議場は風通しが悪いから、あのまま会議を続けていたら、ゼルみたいな老人連中は茹で上がってところよ。だからこれは人命救助」
 アムレディアは肩をすくめる。
「それに、暑さでここに逃げてきたのは私だけじゃないでしょう?」
 アムレディアが見渡すと、店内にはトリシアやキャスリーンの他にも、レン、ベル、アーエス、ショーン、人形のミラ、騎士団の三兄弟や、シャーミアン、セドリックまでがたむろしていた。
「わ、私はその、みま、見回りに」
 王女に向かって苦しい言い訳をするシャーミアンの手には、よく冷えたザクロのジュース。
「……見張らなければいけない連中は、あいつらだがな」
 ショーンが小声でつぶやき、視線をやった先には、井戸で冷やした果物にかぶりついている兄たちの姿があった。